■庭とは
 わが国では、古くから、庭は観賞的な庭(桂離宮、京都の寺の庭)絵画的な庭が作られてきました。そのため、今だにその影響が強く、庭というとそのような庭を思い浮かべてしまう人が多いようです。
 これらの庭は、長い伝統と技術に支えられ、日本人のきめ細かい自然感のふれあう心静まる良さがあります。一方現代の私達には、明るい芝生や色とりどりの花に代表される洋風の庭にも、違った魅力を覚えるようになってきました。
 私達の生活も、洋風化、近代化しますと{使う要素}が要求されるようになり、眺めることは、庭の持っている多くの要素の一つにすぎなくなってきました。

■国と庭園の型
 1つの国には、国を代表する庭園の型があるかと聞かれた場合、有、無、と答えられないくらい型というものは判断が難しい。
 どこの国でも、それ相応の由縁に立って発達したもので、根は深い建築と異なり自然に支配を受けることが多く、国が違えば真似したくともできない事が多い。参考になることは、種類こそ少ないが、植物の用い方、細部やデザインくらいのものである。

■庭園美とは


 庭園美とは、色、形・・・美でありますが、それ以上に、年間を通じての管理作業が大切です。京都には良い庭が多くあると聞きますが、そのわけは長年の管理の良いことがあります。(お寺という環境ということもありますが。)

■植木と庭木
 昔から、竹は木なりやといわれるが、当然のほうに入れられる。樹木とは木質の茎をもっている植物であって、一名木本植物と呼ばれる。草のほうは草質の茎なので草本植物という。この区別も熱帯では通用しないことがある。草の茎が枯れもしないで年々太ってくるからで、トウガラシやナスが木のように伸びてくる。
 植木庭木とは違うものがどうか、違うとすればどこが違うのか。二つとも樹木であることに変わりはないが、取り扱い方で名称が異なるもの、商品として売買することを目的として栽培する場合にはこれを植木と呼ぶ。商品である以上買手がつけば代金と引替にその人に引き取られてゆく。それから先は又商品となるかどうか、そこまで考えなくてもよい。一般商品は破損すれば価値がなくなる。商品である植木に破損があるかどうか。商品だが生き物であり破損に変わって枯損ということがある。しかし細い枝1本折れても価値は無いだろうか、この辺に一般商品との差異がある。一般商品と違うところは
  (1)いつでも移動運搬できること。
  (2)移動によってもそれが枯れないこと
 この二条件が満足されなければならない。
 庭木は意味が違うが普通は混用している。栽培者から買い取る、山から掘取る、他人から譲られる、交換する、その理由の如何によらず庭に植え込まれ、商品から足を洗い、楽しみながら自分の財産の1つとなった樹木を指すのである。試験場や植物園に植えられている樹木は植木なのか、庭木になるのか、そんなことを考えてはいない。ただ樹木なのであって裁植の結果を知りたいから植えているまで。そこを離れて誰かの手に渡ったら初めて何かの名称がつくのであろう。
 他人の庭に「お庭拝見」に参ったとき、そこの主人に庭木をほめて「結構な庭木で」と申すなら礼儀であろうが「結構な植木で」といったのではいささか失礼に当たる。それは植木という言葉の裏には正札のついた商品といった概念がつきまとい「ずいぶん高価であったろう」というかんぐりが加わるからである。
 それならば改まって「庭木とは何か」を質問されたらばどう答えるか。わかりきった質問と思うであろう「庭にある木だから庭木」と簡単にいえるか。それならば「公園にあるから公園木」「学校にあるから学校木」というのと同じ、あるいは「庭に植えるから庭木」と答える人もあろう、この方が一歩進んでいる。それは「植えるから」と加えたからである、単に「ある」より一歩踏み込んでいる。そこでまた質問したい、植えたかどうかはどうして分かるかと。何の木でも庭に植えさえすれば庭木といえるかどうか、人が植えなくても鳥が植えてくれる。鳥のフンのなかの種子から芽生えたものはどうなるのか、これらも放任しておけば大きくなる、招かざる客であって庭主には迷惑千万、庭木どころかあくの悪木、カラスが種まきゃ権兵衛ならぬ家主はほじくらなければならない。
 庭木とは庭の中に植え込みながめ楽しむもの、ひとつの財産である。ただし商品価値はない。観賞価値があり、しかも無形のもの。その庭木と全く同じ形の木はどこにもない。